2014年の踊り町と奉納踊りをご紹介したいと思います。今年はヤムヤムのある興善町も踊り町で本踊りを奉納予定ですので、踊り町の目線でのご紹介も少し出来るかと思います。今年は7ヶ町が踊り町で昨年比1ヶ町多い奉納となります。出し物も、本踊り2ヶ町、山車が祝い船、川船、龍船の3ヶ町に担ぎものの鯱太鼓と名物の蛇踊りと多彩な奉納踊りになります。実は、祝い船の八幡町の奉納には今年は山伏道中、剣舞が含まれており、実際は本踊り3ヶ町とも言える内容です。具体的町名と奉納踊りの概要は以下の通りです。掲載は諏訪神社の長坂での奉納踊りの順番となっております。1.興善町
傘鉾・本踊〔石橋〕(ほんおどり しゃっきょう)
2.八幡町
傘鉾・山伏道中(やまぶしどうちゅう)・剣舞(けんぶ)・弓矢八幡祝い船(ゆみやはちまんいわいぶね)3.万才町
傘鉾・本踊(ほんおどり)
4.銀屋町
傘鉾・鯱太鼓(しゃちだいこ)
5.五嶋町
傘鉾・龍踊(じゃおどり)
6.麹屋町
傘鉾・川船(かわふね)
7.西濵町
傘鉾・龍船(じゃぶね)
ヤムヤムのある興善町のお隣の町で、豊後坂を眼鏡橋の方に降りた所から眼鏡橋迄の電車通りを挟んで6ブロックの町です。袋町、紺屋町、酒屋町の各一部が合併して昭和38年に出来た町ですが、元の3つの町は1597年頃にできた由緒ある町で3つとも踊り町として奉納していたのを3つ合わせて奉納するようになったようです。只、どうも3町一緒に奉納したのは合併の前だっと様で、これが3町合併のきっかけになったのかもしれません?代表的な建物は長崎女子商業高校、長崎医師会病院、長崎銀行本店、長崎県市町村会館、賑橋パーキング等があります。又、現在でも長崎県酒類販売があって昔の酒屋町の名残を残しています。 奉納踊り「阿蘭陀漫才」は、その昔、オランダ人の二人が日本に来た時にお正月のお祝いにまわり、その途中に教会の鐘が聞こえて故郷を思い出すというストーリーのコミカルで異国情緒豊かな日本舞踊です。二人の阿蘭陀人は、うちわを持って青色の衣装を着ているのが萬歳(まんざい)、太鼓を持って黄色の衣装を着ているのが才蔵(さいぞう)で、万歳・才蔵の2人のコミカルな掛け合いが見どころの踊りです。お囃子も色々と工夫されていて、三味線の中に胡弓が混ざったりと、ちょっと変わっていますが、見ていて楽しくなる日本舞踊です。振り付け指導は花柳寿女香さん。前回好評だった「ちび万歳」「ちび才蔵」も、かわいらしい演技で華を添えるそうです。
黒のビロードの輪が印象的で垂れ幕の塩瀬羽二重金糸で編み込んだ三社のご紋を引き立ています。
長崎くんちが始まったのは、寛永11年(1634年)幕府より派遣されている長崎奉行より「諏訪祭礼」を行なう旨御触れが出され、諏訪神社の初代青木宮司が、宝殿、拝殿を造営し、神輿を造ったり、お旅所を大波止と定め、重陽の節句の9月7日から9日迄の3日間で、しめ縄を引いたお旅所までお神輿で神様を渡御、お旅所で御逗留、翌々日還御されるというお祭りの全体のルールを定めて敢行したのが始まりだそうです。 長崎の当時の総町(内町と外町合わせて64ヶ町)から渡御11町、還御10町が選ばれた奉納、中日にお旅所で、音羽と高尾という芸者が小舞を奉納したのが始まりで、以降奉納する各町が嗜好を凝らした踊りを出すこととなった様です。奉納踊りの語源は此処から来ているようです。 見方を変えると、徳川幕府が奉行を市民に認知させるとともに、幕府の権威を示す機会を作ったとも言えます。又、市民の方も、貿易で得た利益が市民にも還元されていて、暮らしも安定していた上に、貿易で外国から得られる珍しいものを利用して、色々な奉納踊りを編み出し、華美を競い合うことが、大きな楽しみになったのではないかと思われます。 そして、これが長崎の豊かな文化を作り上げて来たと考えられます。そう言う意味でも、長崎くんちは長崎には無くてはならないものだったと考えるべきでしょう。