協賛というのは、例年8月9日に開催していた原爆被災者追悼キャンドルナイトを発展的に継続したいとの思いで、
20年弱継続開催されているこの長崎原爆平和祈念「詩の夕べ」という会に参加して、
これからは自らの思いを詩という形で発信していきたいと考えたからです。
今年は第18回という開催経歴に加え、今年はfacebookdというネットワークを利用した呼びかけも効果をあげて、
30名を超える今までに無い盛り上がりを見せた会になりました。
私も、協賛参加ということもあり、小学校以来の詩作にチャレンジし、出来た詩をこの会で朗読させてもらいました。
朗読した詩は
「焼け跡の宝物」と題した散文詩で、以下に掲載します。
焼け跡の宝物 平成24年8月11日
-戦後生まれの私の原爆体験 田中 耕一郎
1.祖父
昭和20年8月9日
朝から浦上地区を営業すると出かけた祖父は
そのまま帰らぬ人となった。
随分捜したらしいが、遺体は見つからず
遺骨のない原爆犠牲者の一人となった。
小さな頃その話を聞いて
子供心に原爆の強い光を浴び水蒸気のように
一瞬で消えてしまったのだと思った。
でも本当は、全身焼けただれ、顔も判別付かない状態で
苦しみもだえて、亡くなったのかも知れない。
爆風で、全身が散り々になって
吹き飛ばされたのかも知れない。
2.焼け跡
木造3階建てだったと言う家も
原爆で燃え上がった災が坂の上まで燃え広がり
呑み込んでしまったという。
焼け跡には、石造りの2本の門柱と
壊れかけた土塀と井戸が残っていた。
井戸の傍には、大きな無花果の木が、
壊れかけた土塀の傍には、寄り添うように柘榴の木が
焼け残り、立っていた。
3.私
3年と9日(ここのか)の時間が過ぎた
昭和23年8月18日の明け方
焼け跡の前に、道路一本隔てて建っていて
幸い延焼を逃れた長家の一角で
私は産声を上げた。
だから、私は、仏壇の側の鴨居に掛けられた遺影以外は
本当の祖父も知らなければ、
本当の原爆の怖さや、悲惨さも知らない。
4.焼け跡の宝物
何も分からない幼少期の私には、焼け跡は恰好の遊び場だった
放射能を浴びた焦土には、永遠に草木は育たないと言われていたが
焼け跡には、既に赤い鶏頭の花や、色とりどりのダリアが咲いていた。
そんな花々の周りに、築山のように盛られた瓦礫の中には
蟻や、団子虫、ミミズといった蠢(うごめ)く虫達と一緒に
変形した瓶や、硬貨、角の取れたガラスや、瓦の破片といった
宝物が沢山埋まっていて、私は良く、そんな宝物探しをして遊んだ。
5.焼け跡の思い出
焼け跡に残った門柱の奥には、大工さん夫婦が小屋を建て住んでいた。
焼け跡の角の一角には看板屋が小さな店舗兼工房を構えていた。
焼け跡の周りには、門塀付きのお屋敷が数軒焼け残っていたが、
長屋作りの2階建ても数軒残っていて、瓦屋、ブリキ屋、床屋等の
店が並んでいた。
私が生まれた長屋には、母屋を潜り抜けるトンネルの様な通路があり
奥には路地が伸びていて、貸家が軒を連ねていた。
そこには大工や舎監等の、原爆で破壊された街の復興を
支えた人達の家族の共同生活の場があった。
お屋敷にも、瓦屋にも、ブリキ屋にも、長屋にも同じ年頃の子供がいて、
焼け跡の周辺は子供だらけだった。
家の隙間をすり抜けるように、裏から友達の家を訪ねるのも楽しかった。
焼け跡の前のT字路の向かいには、生け花教室があって、
T字路の交差点が子供達の集会場だった。
夏休みのラジオ体操もそこに集まった。
皆で遊んだ缶蹴りの缶も、そのT字路の交差点においた。
焼け跡は缶蹴りの絶好の隠れ場だった。
槙の生垣の隙間で息を凝らしたり、
井戸の囲い石や、門柱の影に隠れたりした。
焼け跡は常に遊び場の中心、特別の場所だった。
人肉の味がするという真っ赤に割れた柘榴(ざくろ)を
採ってかぶりつき、種を飛ばしたり
折れそうな枝や、触ると痒くなる樹のミルクを避けながら
採って食べた無花果の美味しさは、今も忘れられない。
6.原爆資料館
そしてある日、課外授業で訪れた原爆資料館の展示品との出会いが
焼け跡に対する私の思いを大きく変えた。
原爆資料館の展示品の中にも、焼け跡の宝物と同じ様に
変形した瓶や、ガラスや、瓦の破片を見つけた。
展示ケースやパネルには、
想像もつかない程、残酷で悲惨な遺品や写真が並べてあった。
11時2分で止まったままの変形した時計、
人影が写った橋の欄干、
ヘロイドでただれた顔や腕、背中やお腹、足の写真
原爆投下直後の街の様子の写真
目を被いたくなるようなものが溢れていた。
祖父の死に様を教えてくれている様な気がした。
被爆者は、大人子供に関係なく、
お母さんに抱かれ、又は背負われた赤ちゃんもいた。
そこには、地獄の街が有った。
7.戦後生まれの私の原爆体験
その日は家に帰っても展示の写真が頭に浮かび、
流石に、食べ盛りの私も食欲が沸かなかった。
楽しい遊び場だった焼け跡、
常に遊びの中心だった焼け跡の
もう一つの顔、苦しみに耐えている顔があることを
教えられたような気がした。
長家の2階の自分の部屋から焼け跡を見下ろす度に、
あの展示の光景が浮かび上がった。
今はビルが建っているあの焼け跡は
唯一の私の原爆体験の場として
今も、私の心の中に残っている。
あの時みた残虐で悲惨な光景が
焼け跡の色あせた宝物に連なる様に
今も瞼に浮かび上がる。